ラジオ放送日 | 2016年3月18日〜25日 |
---|---|
Web公開 | 3月19日 |
>>参考リンク集 |
矢野宏:
今日は、小出さんが尊敬されている足尾鉱毒事件の主導者でもある田中正造さんについてお伺いしたいと思ってます。伊方原発裁判に長年関わってきた小出さんですが、1978年の松山地裁での判決の時に、原告側の垂幕に「辛酸亦入佳境(しんさんまたかきょうにいる)」という田中正造さんの言葉が掲げられました。
小出さん:
そうです。
矢野宏:
これは、どういう意味合いで掲げられたんですか?
小出さん:
伊方という愛媛県の小ちゃな町に、原子力発電所が建てられようとしたわけです。住民の方は様々なかたちで抵抗をしました。抵抗の過程で、命を自ら断っていくというような方もいらっしゃったわけですけれども、その他にも全財産を投げ打って抵抗して、家全体が没落していくというそんな方もいらっしゃったし、もうとにかく住民の方々は死力を尽くして抵抗をしました。
そして裁判というかたちでも、私もまあ原告団の一員として活動したわけです。そして世界でもまれに見るほどに、詳細な科学論争というものを国側と戦いました。そして自分で言うのもおかしいのですけれども、私達が圧勝しました。
国側から出てくる科学者、いわゆる専門家と呼ばれる人達が、法廷でもう何も答えられなくなって立ち往生する、あるいは証言台に突っ伏してしまうというような状況がよくありましたし、裁判の過程でいろいろと調べていってみると、厳重な安全審査と呼ばれていたものも、たったひとりだけしか参加しないというそんな会議が厳重な安全審査だったというようなこともわかってきました。
次々と安全審査のデタラメぶりというのが明らかになってきて、こういう状態で一体どうやって国を勝たせることができるのか、もうこれはもう原告の勝利以外にないと、私は経過を見る限りは思いました。
しかし私自身は、この日本という国が民主的な国というふうには思っていませんでしたし、裁判というものが行政と独立して存在しているとも、当時から思っていませんでした。ですからもし国に勝たせるとすれば、一体どんな論理を使えば国が、国勝訴の判決を書けるのかと思って、その判決の日を迎えました。そしたら、ものの見事にやはり国に勝訴の判決がその日に出たわけです。
原告側の主張など一切汲み取らないで、国側の主張をただただ判決文で羅列をすると。そして、これが認めるに相当であるという、ただただそれだけ裁判官が書き加えたというような判決だったのです。住民の人達が本当に落胆したと思います。
その裁判の原告団の住民の代表は、川口寛之さんという元の伊方町の町長でもあった方なのですけれども、その方はその判決を見て、「こうなれば、もう住民は実力で戦うしかなくなってしまった」と、「裁判所がそれを私達に強制したんだ」というような言葉を残しました。長い間、戦って戦って戦っても、それでもまだ勝てないという状況の下で、「辛酸亦入佳境」というそういう垂幕が出てきたわけです。
矢野宏:
なるほど。あの意味というのは、「何事も全てを打ち込んで事に当たれば、苦労もかえって喜びとなる」という意味だそうですねえ。
小出さん:
はい。まあ田中正造さんが、その言葉を足尾鉱毒事件の戦いの中で書き残したのです。正造さんも全身全霊をかけて足尾鉱毒事件で国と戦ったわけですけれども、当時日清日露の戦争というものが行われていて、国はもう住民のことなど全く考えない、何をやっても勝てないという中で、正造さんはずっと戦い続けたわけです。
最後には、もう野垂れ死ぬようにして死んでいくわけですけれども、それでも彼はあきらめることなく戦い続けました。どんなに辛いことであっても戦い続けることで喜びがあるという、たぶんそういう意味だろうと私も思います。
矢野宏:
なるほど。小出さんがその田中正造さんを意識したきっかけというのは何だったんですか?
小出さん:
私が大学生の頃には、いわゆる公害というものが日本中で起きていた頃だったのです。特に水俣病というものが大きく取り上げられていた時代でした。当時は四大公害とか言われていたわけですけれども、私もそういう公害というものを勉強していく中で、「いや、もっとずっと昔に、実は日本で公害というものがあったんだ」と、それが足尾鉱毒事件だったということに気が付いたのです。
そしてその足尾鉱毒事件を調べていくうちに、田中正造さんという方がいてくれたということを知りまして、以降正造さんの活動というものに私が目を奪われて、正造さんに少しでも近づきたいと思って今日まで生きてきました。
矢野宏:
なるほど。この田中正造さんというのは、衆議院議員を6回されてますよねえ。
小出さん:
はい。その中でも、足尾鉱毒事件を取り上げて国と戦うのですけれども、先程もちょっと聞いて頂きましたように、日清日露の戦争であったわけで、とにかく日本は富国だと、軍隊を増強しなければいけないということで、そのお金を捻出するために足尾鉱山を銅を海外に売るということでお金を稼いでいたのです。
ですから、住民なんかもうどんなんなろうと構わないというような国は態度を示しまして、正造さんは議会の中で散々抵抗するのですけれども、それでも何も良くならないで、結局正造さんは「亡国を知らざる者は、これ即ち亡国」という有名な演説を議会でして、議会を捨てて住民のもとに駆け付けるということをやりました。
矢野宏:
その質問をされた時の当時の総理大臣というのは山県有朋で、「その時の質問の意味が分からない」と答弁を拒否したというふうに伝わっていますよねえ。それが本当に当時の国の態度だったわけですねえ。
小出さん:
今でも安倍さんなんか、どんな質問もちゃんと聞こうとしないわけですから、よく似てると思います。
矢野宏:
そうですよねえ。
小出さん:
はい。
矢野宏:
足尾銅山では、今もまだ完全に自然が回復したという状況ではないというふうに聞いてます。
小出さん:
もちろん、全く違います。亜硫酸ガスが大量に噴き出してきて、周辺の山々はもうはげ山になってしまいました。もう何十年も経ってるわけですけれども、まだまだそのはげ山が回復できないまま今でも残っていますし、銅山から出てきた鉱さいという鉱毒を含んだ毒物がまだ野ざらしになっていまして、ちょうど2011年3月11日の大地震の時に、その鉱さい置き場が崩れ落ちて、渡良瀬川という川にまた流れ込んでしまうというようなことも起こりました。まだまだこれから何十年もそういう状態が続かざるを得ないと思います。
矢野宏:
なるほど。しかし考えてみればこの銅による鉱毒よりも、もっと猛毒な放射性物質を広範囲に撒き散らしたこの福島第一原発の被害というのははっきり言ってそれよりも拡大、大きい被害で人災ですよねえ。
小出さん:
はい。残念ながら多分そうだと思いますし、足尾鉱毒事件の時もそうですけれども、国を支配していた人達は、住民にどんな危害を加えても、誰ひとりとして責任を取りませんでしたし、今日も福島の事故が起こしても、誰ひとりとして加害者が責任を取らないということが、今目の前で進行しているわけです。
矢野宏:
そうですねえ。2年前になりますが、小出さんが雑誌の『世界』の中で論文を書かれました。この田中正造さんの没後100年ということでしたねえ。
小出さん:
そうでした。
矢野宏:
その最後に、「私もまた、私だけの命を何者にも屈せずに、私らしく使いたい」という言葉で結ばれていますが、この最後の一節に込めた小出さんの思いを最後、聞かせて頂けませんか?
小出さん:
はい。正造さんという言ってみれば名家の生まれの方で、単にそのまま生きているならば、きっと大きな財産を築いて、大きな名誉を持ったまま亡くなるということになったのだと思いますが、正造さんは決してそんなことはしませんでした。
とにかく人々に寄り添うという一生を貫いて、野垂れ死ぬように亡くなったわけです。でも私から見ると、本当に輝いて正造さんは生きたと思いますし、私が正造さんに近づけるなんてこともほとんどないわけですけれども。でも私も私にできることを何者も恐れずにやりとげることができればなとそんなふうに思って、少し面はゆいですけれども、あんな文章を書きました。
矢野宏:
そうですか。弱い民衆の側に立って、強大な国家権力と真っ向から戦い続けた田中正造さんの姿が、私は小出さんとダブって見えます。
小出さん:
とんでもありません。足元にも及ばない素敵な方です、彼は。
矢野宏:
どうもありがとうございました。
小出さん:
はい、ありがとうございました。