■ゲスト:栗原佳子さん(ジャーナリスト)
■パーソナリティ:西谷文和(ジャーナリスト)
■テーマ:屈辱の日、なぜ沖縄ばかりが犠牲になるのか
■放送日:2013年5月11日(土)〜17日(金)(収録日:2013年5月1日)
■音楽のたね:ネーネーズ『平和の琉歌』
※著作権の関係によりアーカイブ中での楽曲放送はありません
■放送内容のサマリー
■栗原さんによる詳報記事「<沖縄現地報告>「主権回復の日」政府式典にNO!」 【1】 【2】
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第18回放送は、沖縄の「屈辱の日」を取材したジャーナリストの栗原佳子さんがゲスト。栗原さんによる取材レポートともに、基地をはじめまざまな問題を背負う沖縄の今にクローズアップしました。
サンフランシスコ講和条約が発効した4月28日を、安倍内閣は「主権回復の日」と定め、記念式典を挙行。一方、沖縄は米軍の施政権下に置かれたことから、この日は「屈辱の日」とし、式典に抗議する大規模な県民大会が開かれました。
■屈辱の日と慶留間島の「集団自決」
この県民大会を栗原さんがレポート。さまざまな世代が抗議の声を上げるなか、座間味村議会の中村秀克議長の訴えを交えて、沖縄戦のさなか同村で起きた「集団自決」に触れました。栗原さんは「皆被害者だが、かたちとしては加害・被害双方が交じり合っている。悲痛な経験を口にできない人も多い」と地元の人たちの心情について語りました。
本国復帰後も日米地位協定などの存在で、日本は主権国家ではないと断じる中村議長の声。「こういった怒りの県民大会はもうなくしたい。真の平和の祭典としての大会を望む」と力強く訴えました。
■普天間と高江からの訴え
また栗原さんは名護市辺野古で、基地移設に反対する地元の子どもたちへインタビュー。子どもたちは「静かな空を取り返して、未来には基地もオスプレイもない沖縄でいてほしい」と語りました。
一方、東村高江でのヘリパッド建設の反対運動についてもリポート。運動に携わる地元の方々が録音したオスプレイ離発着の爆音を交え、同地区にお住まいの石原岳さんにお電話をつなぎました。座り込み活動が「通行妨害」と、子どもたちを含めて国に訴えられる逆風、計画されている6箇所のうち1箇所がすでに建設された現状などを解説いただきました。
■沖縄と米軍基地、そして原発の関係 – 小出裕章ジャーナル
なぜ沖縄には原発がないのかという点について、小出さんは米軍基地が密集し現実的に建設できないほか、「アメリカは原発が攻撃を受けた時の危険性を想定しており、基地のそばに原発を建てるなど実質的にありえない」とその理由を示しました。
また本国にも飛行ルートが設定されるなか、墜落事故が相次いでいるオスプレイに関連し、米軍機が原発に墜落したらどうなるか、という点にも言及いただきました。
1988年、愛媛県の伊方原発付近で米軍ヘリが墜落した事件を例に、「原子炉建屋の構造上、屋上は分厚いコンクリートを施工するわけにもいかず、いわばペラペラ。真上から落ちてくるものには、ほとんど無防備といっていい」とその危険性を指摘しました。
福島第一原発事故と米軍の動きについても解説。当時、国民に公表されなかったSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)による放射能拡散の試算データはアメリカには知らされ、避難に活かされていたといいます。
自国民より米軍が優先される状況に、小出さんは「日米安保条約、日米地位協定があり、この国は主権を奪われた状態にある。アメリカに付き従うことが国益とトップが言い続ける、この国の現実だ」と語りました。
■関連リンク
・政府式典がってぃんならん! 4・28 屈辱の日沖縄大会
・主権回復の日(Wikipedia)
・沖縄戦における集団自決(Wikipedia)
・普天間飛行場移設問題(Wikipedia)
・やんばる東村 高江の現状
・コザ暴動(Wikipedia)
・愛媛県伊方原発付近での米軍機墜落事故(1988年)
・沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事件(2004年、Wikipedia)
・SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)(Wikipedia)
・日米安全保障条約(Wikipedia)
・日米地位協定(Wikipedia)
・在日米軍(Wikipedia)
(了)
■次回19回放送のご案内
・放送日:2013年5月11日(土)〜24日(金)
・Web公開:2013年5月14日(火)
・ゲスト:纐纈(はなぶさ)あやさん(映画監督)
・パーソナリティ:石井彰(放送作家)
・テーマ:映画を撮るのは私の生き方
過去の放送はアーカイブページからお聴きになれます。
<沖縄現地報告>「主権回復の日」政府式典にNO!(栗原佳子)
◇またも「捨て石」に沖縄の怒りの声を聞く
沖縄の日本復帰から5月15日で41年――。1972年のこの日、沖縄の施政権は日本に返還された。しかし、復帰41年になるいまも、国内の米軍専用施設の74%が集中するなど、沖縄は重い基地負担を強いられている。
その沖縄で「屈辱の日」と呼ばれる4月28日、政府は「主権回復」を記念する式典を開催した。沖縄を切り離し、米軍に差し出して実現した「独立」を祝うという度しがたさ。式典に抗議して、沖縄では大規模な集会が開かれた。象徴的に掲げられた言葉は「がってぃんならん」。納得できないという意味のウチナーグチだ。その怒りと不信は、政府だけでなく、それを許す日本の社会にも向けられている。
沖縄での抗議集会は4月28日、政府が東京で開いた「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」と同時刻に設定された。「政府式典に抗議する『屈辱の日』沖縄大会」。県議会の中立・野党会派を中心とする実行委員会が主催した。
会場の宜野湾市・海浜公園屋外劇場は満杯。すり鉢状の客席は通路まで埋まり、入りきれない人が外にもあふれた。家族連れ。車椅子のお年寄りもいる。ゴールデンウイーク、しかも日曜にも関わらず、主催者発表で1万人が参加したという。
集会はテーマ曲『沖縄に返せ』の合唱でスタートした。沖縄民謡界を代表する若手の唄者、与那覇徹さんらの三線のリードで、腕を組み、声を合わせる。
<�沖縄を返せ 沖縄『に』返せ>――。
沖縄返還運動の中、全国で歌われた『沖縄を返せ』が原曲だが、「を」から「に」という一字の違いで、意味は全く変わってくる。Tシャツや鉢巻きなど、緑色の何かを身につけた人たちが多い。平和で緑豊かな島の実現を願うシンボルカラーだ。
◇「平成の沖縄切り捨てだ」
この日の登壇者に、84歳の中山きくさんがいた。県立第二高女時代、補助看護婦として沖縄戦に従軍。戦後は教師になった。
「この大会と同時刻に政府の式典が行われていることに憤りと無念を感じます。政府の式典は、61年間の沖縄の苦悩を全く省みない、歴史認識を欠いた心無い行為。まさに平成の沖縄切り捨てではありませんか」
本土防衛のための「捨て石」とされた沖縄戦。その大きな教訓が「軍隊は住民を守らない」というものだった。しかし沖縄は、1952年の4月28日のサンフランシスコ講和条約発効で日本から切り離され、外国の軍隊である米軍の施政下に置かれた。「銃剣とブルドーザー」による強制的な土地接収、人権じゅうりん。過酷な米軍の圧政の源流となる「4.28」を、沖縄では「屈辱の日」と位置づけるようになったが、それを政府は「完全な主権回復」の節目として寿ぐという。沖縄の苦難の歴史と共に歩んできた中山さんは、物柔らかな声のトーンに怒気をはらませた。
「戦後68年、復帰後41年のこんにちも、61年前の4.28から背負わされた苦難の道が続いています。米兵による事件事故、協定違反で飛び回るオスプレイ、米軍戦闘訓練など、戦争を想起させる現状は戦争体験者の私には平和とは言い切れません。何事にも限度があります。これ以上の沖縄差別を許すことはできません」
146センチと小柄。主催者が用意した踏み台に登り、中山さんは思いを訴えた。沖縄に9つあった学徒看護隊有志でつくる「青春を語る会」の会長でもある。同会は、県民大会などに積極的に参加してきたが、今回は高齢などの理由で参加を見送った。その代わり抗議声明を出し、この日は各自が紺色のリボンを身につけ抗議の意思を示すことに決めていた。中山さん自身も膝を傷め参加は諦めていたが、強く請われて急きょ登壇を決めたという。
◇軍隊の島の悲劇 いまも
同じく過酷な戦中戦後を語った登壇者がいた。座間味村の村議会議長、中村秀克さん。戦後生まれの56歳だが、沖縄戦の「記憶」は自らと分かち難くある。慶良間諸島の慶留間島の出身。沖縄戦で最初に米軍が上陸、住民の「集団自決(強制集団死)」が起きた島だ。犠牲者は住民の約半数に及ぶ。
父が亡くなり、私が30歳を過ぎた頃、島の先輩に聞かされました。『あんたのお父さんは「集団自決」の被害者だ』と。ショックでした」
しかも、家族に手をかけたのは祖父だった。その祖父も、父も、生前、一切何も語らなかったという。「どんなに苦しんだかと思います」。
戦後、「これから豊かなヤマト世(ゆ)になる」と、祖父が「仲村渠(なかんだかり)」から日本風の「中村」に改姓した。しかし訪れたのは「アメリカ世」だった。1970年9月、糸満市内で同級生の母親が飲酒運転の米兵の暴走車にひき殺された。しかし米兵は軍事裁判で無罪となり本国に帰還。同年12月のコザ暴動の引き金となった事件だ。
「4.28で沖縄は本土と分断され、20年間植民地状態でした。沖縄は復帰しましたが、真の復帰じゃないですね。差別的な日米地位協定がある。それがある以上、日本は主権国家じゃありません」
少女暴行事件、教科書問題、オスプレイ配備反対……。幾度となく繰り返されてきた県民大会。「こうした大会が、怒りをあらわす必要のない平和の祭典になることを望みます」。家族の「歴史」を公の場で語るのは初めてだったという。万感の思いをこめた中村さんの言葉に、拍手が鳴り止まなかった。
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◇空に拳を突き上げ、「がてぃんならん!」
沖縄で「屈辱の日」と呼ばれる4月28日、政府は「主権回復」を記念する式典を開催した。沖縄を切り離し、米軍に差し出して実現した「独立」を祝うという政府の姿勢に抗議し、沖縄でもこの日、大規模な集会が開かれた。象徴的に掲げられた言葉は「がってぃんならん」。納得できないという意味のウチナーグチだ。その怒りと不信は、政府だけでなく、それを許す日本の社会にも向けられている。
「サンフランシスコ講和条約は、日米安保条約と、それに基づく日米地位協定がセットです。地位協定で県民の人権が蔑ろにされている中、何が主権回復なのか。政治に携わるものは、歴史に学ばずして、これからの日本のビジョンなど立てられるはずがありません」
集会では、名護市の稲嶺進市長もストレートな言葉で政府への怒りをあらわした。今年1月28日、稲嶺市長ら県内41の全市町村長と議長らは東京に赴き、安倍総理に異例の「建白書」を手渡した。要求はオスプレイ配備撤回と県内移設断念。しかし「オール沖縄」による断固とした意思表示も政府は全く意に介さなかった。3月22日には辺野古「移設」のための公有水面埋め立てを抜き打ち的に県に申請した。
安倍総理が「主権回復」式典開催の意向を明らかにしたのが3月7日。沖縄で批判の嵐が吹き荒れている真っ只中のことだ。
辺野古「移設」、オスプレイ配備、最近では八重山の日台漁業協定――。稲嶺市長はそれらを列挙し、こう声を振り絞った。
「いつも沖縄は交渉の道具です。ありんくりん、がってぃんならんことが多すぎます。ちゃーすがうちなー(いろいろ、合点のいかないことが多すぎる。沖縄はどうするのか)。黙っていては、認めたことになるのです。声も出さないと行動もしないとならんのです。ならんしぇーならん(ダメなことはダメ)。しーびちやしーびち(やるべきことはやる)。我々はこれからも、みんなで心を一つにして頑張りましょう」
抑えきれないように噴出する沖縄の方言(沖縄では「島くとぅば」といわれる)。翌日の沖縄タイムスには、「がってぃんならんという気持ちは日本語ではうまく表現できない」と記者団に説明したという稲嶺市長の言葉が載っている。同日付社説には「腹の底から怒りがわく場合、土地の記憶や体験に根ざした島くとぅばが出てくる。その思いがストレートに伝わり、会場には終始、指笛が鳴り響いた」というくだりも。実際、この日の登壇者で、方言を交えて思いを表現した人は何人もいた。
◇「屈辱の日」集会翌日に、オスプレイ追加配備確認
この日は雲一つないような好天に恵まれた。集会の最後、全員が青い空に拳を突き上げ、「がってぃんならん!」と5回、力強く唱和した。
しかし、その翌4月29日の防衛相会談で日米は、オスプレイ12機をこの夏、普天間基地に追加配備することを確認した。東京の政府式典で、とってつけたような「沖縄の辛苦に思いを寄せる努力」を口にした安倍総理の、舌の根も乾かぬうちに。
集会の前後、参加者に感想を聞いて回った。「安倍総理の美しい国づくり、憲法改正のための布石」だと警戒する声が多く聞かれた。沖縄を愚弄し続けてきた日本政府はもちろん、それを支える「ヤマト」に対する憤りを、次のように率直に口にする人も少なくなかった。
日本人が勝手に祝いたいなら祝えばいい」
「私は4・28を祝えないし、それと同じで、5・15も祝えない。辺野古新基地計画や高江のヘリパッド建設をとめて、祝うことにしたい」
◇ピースキャンドル 一家の思い
最後に、名護市瀬嵩の渡具知さん家族の声をご紹介したい。瀬嵩は、辺野古と同じ東海岸にある静かな集落で、ジュゴンも生息する大浦湾に面している。辺野古「移設」というが、実際は巨大な新基地計画であり、大浦湾は原子力空母も接岸できる軍港や実弾の装弾場などとして狙われている。
測量業を営む武清さんは、妻の智佳子さんとともに、基地受け入れの賛否を問う名護市の市民投票が行われた97年から、一貫して基地建設反対を訴えてきた。建設業者には賛成派も多い。反対の声をあげることは、仕事を失うことも意味する。
この日、開会の1時間半ほど前に会場につくと、バッタリ武清さんと子供さん3人に会った。朝の8時過ぎに瀬嵩を出てきたという。武清さんが皮肉交じりに語る。
「きょうからまた出発、という気持ちで参加する人が多いんじゃないかな。4・28のことは忘れている人も多かったと思う。きょうの日を、目覚めさせるアベくんに感謝だね」
一家5人は2004年11月から、同じ「ヘリ基地いらない 二見以北10区の会」の浦島悦子さんらと毎週土曜夕方、「ピースキャンドル」を続けている。キャンプシュワブ前にロウソクを持って立ち、道行く人たちや車に手を振り、新基地建設反対を訴えるのだ。日米が「辺野古」に執着する現実の中で、今年11月が来るとまる9年になるという。「こんなに長くなるとは……」と武清さん。
97年の市民投票の年に生まれた武龍くんは今春、高校に進学した。
「どれだけ声をあげても聞いてくれない。対等に見ていてくれないんだなと怒りを覚えます」
物心ついたときから両親に連れられ集会に参加していた。最初は「どうして?」と思っていた。だが、だんだん成長するに連れ、両親の思いがわかるようになったという。毎週、どんな思いでキャンプシュワブの前に立っているのか。
「早く終わりたいですよね……。でも、終わらせるためには、やらなきゃならない」
そう言って武龍くんは、笑顔でこんなふうに話した。
「あの活動を続けていることで、たくさんいろんないい人たちに出会えました。早く区切りがついて、その人たちと楽しくバーベキューでもしたいですね」
武龍くんの下は、和紀さん、和奏さんの双子の姉妹だ。小学6年生になったという。和紀さんが次のように言う。
「沖縄はアメリカのものじゃないのに、なんで沖縄に基地をつくりオスプレイをもってくるのか。私たちは意味もわからないままずっと闘ってきましたが、諦めないで、静かな空を取り返して、未来にはオスプレイとか基地とかない沖縄であってほしい」
そして和奏さんが続けた。
「きょうはたくさんの人が、基地がなくなるまで頑張っていくために集まったと思う。お父さん、お母さんは私たちの未来を思って頑張ってくれている。私たちも見習って、自分たちの未来だからこそ、頑張って幸せな国にしたい」